作曲家・本間雅夫のオフィシャルホームページ

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2006.11 仙台
2006.11 仙台
2007.3 広島平和記念公園
2007.3 広島平和記念公園
2007.3 京都
2007.3 京都

ケイ・赤城と2007.9. 『本間雅夫作品展 '07』青森

赤城眞理 2007.9. 『本間雅夫作品展 '07』青森
2007.9.『本間雅夫作品展 '07』青森
2007.9.『本間雅夫作品展 '07』青森

上原玲子

【本間先生とのご縁は、私が宮城学院女子大学の学生だった当時、一人で行った和太鼓の公演会場で、赤城眞理先生を始め数人のピアノの先生方を誘っていらしていた本間先生に、終演後『めし食いに行こう』と声をかけて頂いたのが、始まりでした。

大学で眞理先生に師事しOGD(音楽の現代と伝統の会)のコンサートを聴き、現代音楽の楽しみを知り、又当時自分のアイデンティティを模索していた私にとって、『ピアノのためのクロスモード』との出会いは、運命を感じずにはいられませんでした。大学の卒業試験で『ピアノのためのクロスモード』を演奏させて頂いた事で、私にとっても演奏中に感じた客席との一体感が演奏家としての原動力になりましたし、何より本間先生が大変喜んで下さり、OGD試演会や多くの演奏会で演奏の機会を与えて下さいました。

結婚してからは、主人の上原正弘氏と私の為に、『寂響 Z〜ホルンとピアノによる〜』『交錯W〜ホルンとピアノのための〜』そして『ホルンと管弦楽のための三章』を作曲して下さいました。心の高揚や衝撃、はたまた迷いや鎮魂を感じる響きの中に、懐かしい故郷の訛りを耳にした時に感じる安堵感を覚える『本間節』は、楽譜と対話していても本間先生とお話している如く『そうですよねぇ!』と相槌をうつような気持ちになります。

13年前に主人の故郷の沖縄に移ってからは、メールという文明の利器のおかげで、仙台にいた時より頻繁に 近況をお知らせする事が出来、旅行と『ホルンと管弦楽のための三章』初演時と二回、沖縄へも来て頂き、沖縄戦跡で先生の想いを感じ、移動の車中で先生の幼い頃の青森のお話や音楽と出会った頃のお話を伺う事が出来、幸せなひとときでした。

今、遠くに生活していますと、ふと仙台においでになる錯覚に陥る事もありますが、今となっては飛行機に乗らずともいつでも先生の魂を近しく感じる事が出来るようにも思えます。2009年9月に沖縄で開いた私のリサイタルで『ピアノのためのクロスモード』を聴いた方から、『以前旅行で訪れた青森の景色が目の前に蘇ってきたようだった。』と言って頂きました。嬉しく思ったと共に、本間先生の作品を、これからもたくさんの方々に聴いて頂きたい!と強く感じました。

これからも、大変微力ではありますが、本間先生の生のお声を聴いた者として、本間先生の音の世界を伝える事ができたら幸せと思います。津軽三味線の國の本間先生の音が、三線(さんしん)の邦『さとうきび畑』の地で、響いていく夢を描いて。】

木村雅雄

本間雅夫さんの思い出。

余り前のことで良く覚えていませんが、本間先生のお嬢さんが未だ大学で古楽を勉強していた時代に、古楽を通して東京でお嬢さんと知り合いになりました。何度かお会いするうちに、お父さんは作曲家だということ知りました。当時、本間先生は町田の玉川学園に住み、和光学園で音楽を教えておられましたが、どんなきっかけか忘れてしまいましが、二度ほどお宅へお邪魔したことがありました。それからどのくらい経ってからでしょう、暫くしてから宮城教育大学の先生として仙台にいらしたことを知りました。

仙台にいらしてからは、松原先生や大泉先生のお仕事で宮城教育大へ行ったとき、また音楽会で本間先生に顔を合わせる機会が増えていきました。そのうちお家にお邪魔するようになりましたが、いつも東京でお会いした時と同じく、いつも優しく爽やかな方でした。僕は、最初から師弟関係もないし、僕の古楽とは別の世界でお仕事をなさっていましたが、何か気が合ったのでしょうか一緒にお酒を飲む機会も増えていきました。

当時とても印象的に覚えていることは、彼のピアノの中が消しゴムのカスだらけだったことです。そのうち宮城県美術館が開館することになり、そのこけら落としに彼のチェンバロ曲を演奏し、また確かジョン・ケージの曲だったでしょうか、大泉先生や岡崎先生と一緒に、手や机などを叩く曲に参加させて頂いたのも良い思い出です。お陰さまで、その後20年間僕らのルネサンス・コンソートは県美術館で毎年演奏をさせて頂きました。とても感謝しています。

ご病気になられてから病院を伺っても、いつも変わらず穏やかでした。彼はキノコ、山菜や漬物が好きで、時々蔵王を訪ねて来られましたが、病院へ自作のタクアン漬けをお持ちした時、こんなの硬くて食べられないよと言うので、一切れ食べてみてよと言ったら、一つ口に入れ「旨い」と言ったのが良い思い出です。

ご冥福をお祈りいたします。

チェンバロ製作者 木村雅雄

木村政巳

私のような者がこのような場に何かを書くのは僭越であるが、本間先生の入院中親しく接して頂いた一人として思いを述べたいと思う。

旧陸軍の中将に本間雅晴という方がいる。戦争中フィリピンのバターン半島での所謂「死の行進」の責任を問われA級戦犯として処刑された。これに関しては角田房子著「いっさい夢にござ候」に詳しくあるように全く無実である事が判明しているが、中将は先生と親戚筋にあたる方なのだという。先生のお名前と一字違いであるので、名付け親の方の意識に中将の存在があったと想像することができると思う。

中将は旧陸軍の中にあってリベラルで合理的な考えの持主だったと言われているが、銃殺刑の際の最後の言葉「さァ、こい!」にみられるように気骨のある方でもあったという。

先生の重要な作品に「八月の歌」と題された一連の作品群がある。戦争と原爆をテーマとした作品であるが、中将との関係はありますか?とお尋ねしたことがあった。先生は私の予想外にきっぱりと否定なさった。かなり強い調子の否定だったので驚いたことを覚えている。おそらく他人に言っても分からないとお考えだったのか、それとも触れてはならない領域に踏み込んだ私の非礼を窘めたのか事実は分からないが、不躾な質問をしてしまったと悔やんだのだった。

また別の機会に先生が戦争末期に陸軍少年航空隊に志願されたと聞かされたこともある。あの時代それは特攻すなわち死を意味するのであろうが、先生はご自分が軍国少年だったと仰ったのだった。

「八月の歌」シリーズは強いメッセージを含んでいて聴く度に衝撃を受けるが、先生の複雑な思いが込められているように感じてならない。先生の作品は妥協のない厳しい音で貫かれているが、その根源にあるものは何なのかを知りたいと思う。

生き方においても真摯であった。入院中は常人なら音を上げるほどの治療にも前向きに立ち向かわれ医師もたじろぐほどの姿勢であったと聞く。本間中将の「さァ、こい!」に通ずる気迫を持っておられたのではないだろうか。

ご自分には厳しい方であった反面、他人には優しかった。先生に接した人は皆、自分は先生から格別に思われていると感じていたらしい。無条件の思いやりがあった。私事で恐縮だが、私のある作品が再演される報告を持って病室に伺ったとき、先生はすでに体力の限界が近づいていてパンフレットを持つことさえままならない状態であったにもかかわらず、ベッドから起上がられ「良かった良かった」と握手して下さった。

先生が亡くなられて一年半になるが敬愛の情が募るばかりで、今もなおこの世にありせばの感をを強くしている。

木村政巳

國頭永浩

本間先生、長らくご無沙汰してますが、お元気ですか?

先生が異次元の世界に旅立たれて早くも一年半、今頃は、白鳥座の近くを飛翔?それとも目的地に着かれて、曲作りに励まれたり、爺さまの駄洒落を飛ばして周りを困らしたり、でしょうか?

先生が旅立たれた後の仙台は、皆、茫然自失、オリオン座の真ん中の星が消え、三ツ星の形がガタガタと崩れてしまったみたいです。思い返しますと、先生は“家庭人、教育者、作曲家、偉大なるプロデューサー”等々、種々な側面をお持ちでした。

「家庭人」としては、眞理先生をこよなく大事(愛され)にされ、私達には心温まるホームパーティーをしばしば開いて下さり、家族や仲間との絆を大事にされていました。

「作曲家」、入院中も作曲をされているお姿、懐かしく思い出します。先生のコンサートに伺うと、聴こえて来る音楽の後(うしろ)から、お顔が“にょきっ!”、お人柄や体温が“じわ〜ッ”!《創造する方》と同じ時間・空間にいる喜びに浸り、至福のひと時を味わせて頂きました。

「偉大なるプロデューサー」、アジア音楽祭、大学の諸行事、トライオン、OGD、等々大きな催事から仲間内の小さな会まで、常に将来を見据え、グローバルな視点に立ち“企画、立案、推進”を一手に引き受けてこられました。併せて、スタッフが気持ちよく動けるよう、あらゆる事態に“目配り、気配り”、催事の成功は事前の準備が大事、と“段取り八分“いや“十分”を旨とされていた事等、もう心底“感服・敬服!”

本間先生、異次元の世界で楽しく過ごされていると思いますが、この世は相変わらず“問題山積”、飽きる暇など全く無し、楽しいですよ〜

早いお帰り、お待ちしてま〜す!

桑原郁子

懐かしい第一合研

宮城教育大学卒業生  桑原郁子

年がばれますが私が入学した当時(昭和57年)には宮城教育大にはまだ『合研』と いうものが存在していた。難しいことは分からないけれど,当時ユニークな入試制度 で全国から注目された大学だけあって,その教育方針や組織もおそらく独特なものだっ たのだと想像できる。中に学生として存在していた私は全く意識できなかったのだけ ど・・・。大学の教授と学生が四六時中同じ部屋で過ごす,それが合同研究室,つま り合研。音楽科に入学した私は当然のことながら音楽科第一合研で学生生活の多くの 時間を過ごすことになった。この部屋を学生とともに使用していたのが本間雅夫先生。 小さな教室程度の部屋の大きさはあったものの,その一角を曇りガラスの背の低いパー テーションで仕切ってその中で先生はお仕事していらした。当然先生の部屋から流れ てくる音楽は学生にさらには学生のくだらないとめどないおしゃべりは先生にまる聞 こえの状態。今思えばあの空間で先生はどうやって創作活動をしていらっしゃったの だろう?授業中とはいえ全学年が所属していた合研では誰か彼か部屋で休んでいたし, お昼時ともなればわいわいがやがや,部屋に静寂が訪れることはなかった。学生は全 く遠慮がなかったと今思う。おしゃべりが過ぎて先生の気に障るような発言が飛び出 せば,仕切りの中から大声で先生の怒鳴り声が聞こえてきたが,そんなことで懲りる ことなく同じことが日々繰り返されていた。

とは言え先生に迷惑ばかりをかけていただけではなかった・・・と思う,いや思いた い。本間先生はちょうどわたしたちの学年(中学校課程音楽専攻は7名)の担任でい らしたこともあって何かとわたしたちに声をかけてくださった。特に私などはできの 悪い教え子だったのでたくさんのご心配とおかけしていたと思うが,決して見捨てず いつも気にかけてくださった。お仕事が一段落すると仕切りの扉を開けて「桑ちゃん コーヒーにしようか?」と誘ってくださった。コーヒーを淹れるのにも先生のこだわ りがあり,わたしたちは手伝わされるもなかなか免許皆伝には至らず,お湯の温度, 注ぎ方など細かく指導された。それでもコーヒーをいただきながら,先生のお若い頃 の中学校教員時代の話からご趣味の錦鯉の話に至るまでとりとめもなくいろいろ語らっ たのは本当に懐かしい。時には部屋を飛び出してジンギスカンパーティーをしたり錦 鯉の買い付けを手伝いに行ったり・・・。

先生と学生との結びつきといえば決して外せないのが「音楽理論」講座での宿題提出。 大学生になってまで宿題があるとはなんと悲しいことか。しかも毎週。講義が終わる と指定の期日までに先生の部屋の前にあるボックスに宿題を提出。すると次回の講義 ではそれが赤ペンだらけになって返却されるというシステム。さらにあの右肩上がり の勢いのある先生の独特の筆跡で「何やってんだ!」「バカヤロー!」「やり直し!」 との叱咤のコメントつき。毎週大いなるスリルをもって授業に出ていたのが思い出さ れる。当時はどんな評価をされるのだろうと毎週恐怖のみを抱きながら授業に参加し たものだった。私も小学校の教員になってン十年,当時の先生の気持ちが少し分かる ようになってきた。宿題なんて出される方よりも出す方が辛い。出すからにはすべて に目を通さなければならないし,次回にはさらに伸びるようには添削もしなければな らない。時に励ましの言葉も。大学生相手に先生はこまめに私たちそれぞれの能力に 合わせ細やかにご指導くださっていたことが今さらながら本当に有り難い。しかも大 いなる愛情を持って。直接音楽に関係のない仕事をしていたとしても当時学んだこと, 学んだ苦しさ,学んだ姿勢が今の生活にいかに支えとなって心に残っているか。先生 は偉大なる芸術家であると共に本当に愛ある教育者だったのだということが今さらの ように実感できる。

卒業後も住まいが近くということもあって,時々声をかけていただいて先生のお宅に お邪魔したり,演奏会のお手伝いをさせていただいたりしてきた。私が仕事や生活に 追われ息切れしそうなときも先生はお年を重ね益々お元気。常に新しい試みに挑戦し て新しい音を生み出すだけでなく,周囲の人々に働きかけて新たなイベントを企画な さっていた。その精力的なお仕事ぶりにはただただ脱帽するのみ。私の方が先生から 元気を頂戴してばかり。先生,不肖の教え子でごめんなさい。でも私なりに先生の教 えを支えに今もどうにかこうにかがんばっています。

先生の追悼の演奏会にうかがう度,以前とはまた違った表情の先生にお会いできます。 作曲のお仕事は本当にすてきですね。演奏者や聴く人が違えばそのたびに違った響き を生み出してくれる。わたしたちはいつでも先生の様々なお顔にお会いできる。これ からも先生の音楽からたくさんの懐かしさと元気と希望を勝手に感じさせていただく であろう私です。これからもふらふら歩いている私をずっと叱咤激励し続けてくださ い。よろしくお願いします。

佐々木隆二

本間節と郷愁

 私は本間先生の生まれ育った、西津軽郡の深浦を知らない。先生とは様々な機会にご一緒したが、恐らくFCM(Friends of Contemporary Music)の仲間たちの酒宴の席だったろうと思う。寛いだ、ときの流れの中で、深浦でのご自身の幼、少年時代のお話をされたことを私は深く記憶に止めてある。日本海を望む風景と波の音。その話を聞きながら、私は先生の音楽の原点を盗み見たように思った。

 先生は精力的に作品を書き続けた。それと同じくらい作品を発表する場を、自らの手で開拓し、模索し続けた人でもあった。1976年から17年間、OGD(音楽の現代と伝統の会)を組織し、解散後新たにFCMというグループを作り、先生にとっての草の根運動を開始する。また一方では、グループ「TRION(トライオン)」、「JFC東北」、「仙台現音の会」などでも中心的存在として活動を続けられた。1987年の「仙台現代音楽祭」、1987年と1995年の「アジア作曲家フォーラム」、1990年と1992年の「アジア音楽祭」等の大きな催しの実現も、先生なくしては考えられないだろう。

 開発や交通、グローバル経済、高度消費社会と時代が大きく変化し、自己と場所の関係が希薄になるなか、先生は「場所」に拘った。1974年に宮城教育大学教官に赴任してから逝去なさるまで、生活の場所である仙台を、生誕地である深浦を、所謂、ここ東北の地を創作と発表の中心と位置づけていたように思う。勿論東京など、中央での発表も同時に行なってはいたが、これほど東北という地に拘り続けたのは、先生の音の原点がこの東北にあったからだろう。

 誰が名づけたのか、先生の作品に度々顔を出す祭囃子ふうの音楽を、いつの頃からか、「本間節」と呼ぶようになった。それは日本人の心身に宿っている、庶民が何世紀にも亘って受け継いできた“血湧き肉踊る”リズムやメロディーが、先生の深浦での幼、少年期―私が盗み見た本間雅夫の音楽の原点だと直感した―に、風土によって培われたものなのだと、私は思っている。現代人にとって最早失われつつある風土のリアリティーが、先生には確固としたものとして存在していたからこそ、「本間節」は私たちの心を捉えたのだろう。深浦という場所、その風土への郷愁。「本間節」を、私はそんなふうに勝手に想像している。

仙台 現音の会代表 佐々木隆二

住川鞆子

本間雅夫先生を偲んで

 先生が「弦楽四重奏曲第1番」をもって日本音楽コンクール作曲部門室内楽の部で1位を受賞されたのが1954年であった。この時期は、うたごえ運動が盛んになり、一方で作曲家の発言や作品発表が音楽ジャーナリズムで目立つ扱いを受け始めた時期でもある。なかでも1946年に創刊された『音楽芸術』はその雄であった。日本人による作曲が社会的にも漸く関心をもたれるようになった時代が到来したのだった。しかし、すでに四半世紀を経た十二音技法の本格的受容を手始めに、セリー音楽、ケージらの前衛音楽と日本の作曲家は欧米からやってくる新たな音楽的試みに取り組まねばならなかった。その中を先生はこうした音楽への強い関心をもちながら旺盛な作曲活動をつづけてこられた。そこには、作曲家として西洋の音楽語法に学びつつも日本人であることや内なる日本民族と文化に自分の音楽のなかで如何に向き合うか、という課題があり、真摯にこの課題に向き合われたのだろう。いや、向き合うことにこそ先生のアイデンティティはあったのではないか。早くも1963年に≪津軽方言詩と室内楽のための六章≫を発表されて以来、ふるさと津軽とことばは先生の音楽のなかに通奏低音のように在りつづけたのではないだろうか、ちょうど先生の言葉から津軽なまりが消えることなく仄かに聞こえたように。

 作曲家にとって特定の楽器とその音楽を良く知ることは素晴らしい作品を生むのであろう。愛するパートナーである赤城真理先生による本間先生のピアノ曲演奏の繊細で表情豊かな美しさは、年を経てもなお記憶に鮮やかである。 1年ほど前、病床にありながらもご元気だった先生と日本人作曲についてあれこれ楽しく話させていただいた。最後まで作曲家を生き抜いた本間先生のご冥福をお祈りする。

                      2009.12.22  住川鞆子

千葉敏行

千葉敏行
抜けない棘

大学時代、ひょんな縁から新築された本間先生のお宅の表札を書いた・・・そこから始まったお付き合いでした。 私が初演した七つの作品はどれも本当に難しかった。どの作品も難解なのに、表現者としての真摯な態度と深い愛情が込められていました。アマチュアコーラスの指揮者にすぎない私に、実に多くの期待を寄せていただき、多くの演奏機会を与えていただきました。どうして私なんかに? ずうっと考えてきました。いつでも、どこまでもやさしかった本間先生。

多くの作曲家の晩年は、シンプルな作風になっていく。本間先生はそうはならなかった。本間先生の晩年は合唱作品が実に多い。それは、先生の音楽の原点が合唱だったからに違いない。シンプルになるのではなく、原点に還ったのだ。「地球上で最も優れた楽器は人間の声である」と語ったのは間宮芳生だが、言葉を有して、最も微細な表現力に富んでいるのが、人間の歌声であることは間違いない。本間先生は、究極の演奏体である人間の歌声による合唱に還っていったのに違いない。そして、その合唱作品は、極限まで余分なものをそぎ落としたシンプルさに至った。

そんな合唱の若い担い手に期待を寄せていただいた…何とありがたいことだろう。

訃報後弔問すると、私が依頼した作品の膨大なスケッチが先生の部屋のあちこちに遺されていました。そのときまでは、私が「アマデウス」のサリエリになってしまったことを悔やんでいたのですが、死のときまで作曲家であろうと生き抜いた姿に接して、「本間雅夫」が私の心に突き刺さりました。その棘の意味を一生かけて問い続けていきたいと思います。それが、本間先生への恩返しと信じているから。

合唱団パリンカ指揮者 千葉敏行

山元康生

本間先生の思い出

仙台フィルハーモニー管弦楽団フルート奏者 山元康生

私が宮城フィルハーモニー管弦楽団(現・仙台フィル)に入団した1982年から本間雅夫先生は先生の作品だけでなく色々なフルート作品の演奏を私に依頼して下さいました。
私は現代の作曲家の作品を演奏する事には作曲家とのコミュニケーションを通して作品を理解し、より良い演奏ができると考えていますので他の時代の作品を演奏する時には得られない楽しみがあります。

しかし今、思い返すと本間先生の意図に沿った演奏ができていたとはとても言えない恥ずかしい記憶ばかりで後悔しております。 本間先生は戦争に徴兵される世代ではなかったのですが自ら志願して航空兵になられました。
当時、戦闘機に乗るという事は空で死ぬ事を意味していました。 本間先生はご自分の命と引き換えに何を守ろうとしていらしたのでしょうか? 生まれ育った深浦の町と、それに繋がる人々でしょうか?

私がそれについてお尋ねすると先生は具体的には答えられませんでしたが「何かをやらねば」というお気持ちがあったそうです。 また、そう思うようになった命を軽視する当時の教育の恐ろしさにも言及なさっていました。 その体験が後年の先生の教育者としての立場と作曲家としての方向性を形成していったのだと思います。 戦争の記憶を風化させてはいけないとの思いからたくさんの原爆の歌を作られたのも先生の平和を願うお気持ちからだったのだと思います。

中学校の3年間を広島市で過ごした私には被爆2世の友人がたくさんおりました。 彼らは多くを語りませんでしたが心のどこかに絶えず不安を抱えて生きているのだと感じました。 これからも本間先生の作品を演奏する事によって若い世代に平和を願う気持ちを持っていただきたいと思っております。 また次に本間先生にお会いした時には、もっと対話をして良い演奏をしてみたいものです。

吉川和夫

本間先生を想う

ご縁あって宮城教育大学に勤めることになり、右も左もわからぬ私を、最初に仙台へ迎えてくださったのは本間先生だった。<ピアノのためのクロスモード>でその名を知られた作曲家と大学の「同僚」になるのは、嬉しいことだった。大学での先生は、眉をひそめ、苦虫を噛み潰したような表情で小言をおっしゃり、その表情のまま、意見されている者が崩れ落ちそうになるような駄洒落を言われた。指導は厳しかったが学生たちは慕っていた。

私は、先生が受け持っておられた授業の大半を引き継いだ。当時、先生が作られた音楽理論についてのカリキュラムは、教員養成大学という前提を踏まえながらも、音楽専門家として学んでおかなければいけないものは何かについて考え抜かれたものだ。私はそれをそのまま踏襲しようとしたけれど、その後何度かの大学改革によって維持が困難になり、カリキュラムを崩さざるを得なくなった。それは、今でも私にとっては痛恨事である。

「同僚」としてご一緒したのは1年半だけだったが、その後も作曲家仲間としてお付き合いさせていただいた。自ら推進役となって手がけた創造と啓蒙の運動は、ほとんど手弁当だっただろう。若い人たちを世に送ることも使命としておられた。

本間作品は、無調を基本とした厳しい書法によるものが多いけれど、フルートとピアノによる<かなたへ>などは、とても抒情的に聴こえる。また、故郷に贈った<深浦讃歌>は、調性を持った穏やかな歌。このような書法では、滲み出る人柄は隠せない。作曲のお弟子さんに対して、「雰囲気で書いてはいけない。仕掛けで書きなさい。」と常々言っておられたこととは別の、先生の優しさを見たような気がした。

作曲家・宮城教育大学教授 吉川 和夫