故本間雅夫告別式のご案内
謹啓梅雨の候、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
さて、本間雅夫氏は昨年より宮城県仙台市で病気療養していましたが、六月二十一日午前十時、膀胱癌のため、東北大学病院において逝去されました。
昨年春、喜寿のお祝いにおいでになった時の氏のお元気な姿を拝見したばかりだったのに残念でなりません。
内々にて六月二十三日密葬をすませましたが、あらためて告別式を左記のようにとりおこなうことといたしました。
ここに謹んでご案内させていただきます。
平成二十年七月
各位
記
日時 平成二十年年七月十三日(日) 午後二時
場所 斎苑別館
仙台市青葉区木町通二丁目二ー一三
電話 〇二二ー二七一ー二二三〇
告別式実行委員長 片岡良和
告別式はしめやかにとりおこなわれました。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
作曲家本間雅夫先生を悼む
六月二十一日、本間先生が永眠された。昨年秋から今年の春先までの入院では、先生は病室にキーボード等を持ち込み、創作意欲も旺盛で、退院されてからは快方に向かっているものと安心していたのだが、今回の再入院からお亡くなりになるまでの早さは想像すらできないことであった。
一九七四年、先生が宮城教育大学助教授に赴任されてから、仙台の作曲界(作曲のみならず音楽界全体)は激変した。先生が常々言っておられた「音楽の歴史は作曲家の歴史。だから常に新しいことを目指して挑戦していかなければならない」「若い人にチャンスを与えなくてはならない」ということを具現化するために、先生がまず立ち上げたのがOGD(オー・ゲー・デー<音楽の現代と伝統の会>)という仙台に現代音楽の普及と創作活動の活性化をはかるための運動であった。これは一九七六年から十七年間続いたが、その影響は計り知れず、一九八七年の「仙台現代音楽祭」、一九九〇年の「アジア音楽祭」などへと結実していく。ことに後者はその後も継続して行われ、その評判は仙台にとどまらず東京、さらには諸外国からも注目を集めることとなった。
他方、一九八七年には在仙の作曲家片岡良和、岡崎光治の両氏と「グループ・トライオン」を結成した。これは仙台圏の創造的な音楽文化の形成のための行動として大きな発言力を持つこととなる。このような先生の努力は決して無駄になることはなく、作曲のみならず演奏にも良い刺激になった。現在仙台市の最も大きな文化イベントの一つである「仙台国際音楽コンクール」が開催できたのも無縁ではない。
先生は作曲の筆が速かった。というよりすべての行動が速かった。「演奏するものの立場になれ。良い演奏をして欲しいと思うなら速く楽譜を渡せ」が口癖だった。音楽会の企画などでは常に演奏会までのタイムテーブルを決めることを第一にされていた。勘で物事を決めたり、言い逃れの嘘が大嫌いな人だった。厳しい先生ではあったが、自分の教え子たちをいつまでも心に留め心配してくれた。人情味あふれる優しい浪花節的な人であった。
かつて先生は「人間は自分の生まれたり育ったりした風土を忘れることができない。だから作曲家はそれに根ざした独自の語法を見つけなければならない」と力説なさっていた。本間雅夫という作曲家は、モーツァルトやベートーヴェンが一聴しただけで彼らの作品と解るのと同じように、本間雅夫の語法、様式をはっきりと持っている数少ない作曲家のひとりであった。作曲そのものが彼の生き様だった。今頃天国で、半ば、はにかみながら新しい音楽創造のアイデアを練っていることだろう。
七月十三日の音楽葬(午後二時、斎苑)であらためて先生の言葉を噛みしめたい。




